出会いを重ねた立教時代 
音楽をめぐる旅は続く

創立150周年記念企画 総?対談シリーズ ~“自分らしい生き方”を追求するということ~

2024/12/12

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OVERVIEW

今でも語り継がれる伝説のバンド、はっぴいえんどやイエロー?マジック?オーケストラ(YMO)などを結成し、ソロやユニットでも活動を続け、日本の音楽シーンに多大な影響を与えてきた細野晴臣さん。数々の盟友と共に、音楽を追い求めて自由に旅を続けてきた半生に迫ります。

音楽を「聴く」から「奏でる」へ。自由にギターを鳴らす楽しさに浸って

西原 音楽との出合いについて伺いますが、幼少期からレコードやラジオを聴いておられたのですね。

細野 4歳の頃から「レコードをかけて」と母親にせがんでいたのを覚えています。「ブギウギ」のリズムが好きで、ビッグ?バンドなどを聴いて飛び跳ねていたんですよ。小学生になると、父親が買ったトランジスタラジオを自分のものにしちゃってね。アメリカのヒットチャートなどが流れてくるのですが、そこで耳にする音楽がすごく新鮮に聴こえました。深夜放送を聴くようになったのもこの頃からです。

西原 最初はギターを弾いておられたんですよね。小学生の頃はピアノを習っていたそうですが、鍵盤ではなく弦楽器に気持ちが移ったのはなぜですか。

細野 僕のイメージでは「ピアノは教わるもの」だったからです。中学時代のクリスマスにギターを買ってもらってね。ギターは自分であれこれ試しながら音を奏でるのが楽しくて、性に合っていたんでしょう。

西原 細野さんの音楽に漂う「自由さ」は、幼い頃から表れていたのですね。

細野 その点においては、坂本龍一※1くんとは対照的です。音楽のエリートである彼と、自由気ままにやってきた僕とではタイプが異なる。互いにないものを持っているからこそ、とても意識し合っていたんですよ。

西原 たしかに坂本龍一さんは「教授」と呼ばれていらっしゃいました。さて、細野さんは中学をご卒業後、立教高等学校の門をくぐられます。立教を選んだ理由について教えてください。

細野 当時ヒットした映画『ベン?ハー』(1960年公開)を観たのがきっかけでした。キリストの生涯を織り交ぜて描かれた物語に影響を受けちゃって。必ずキリスト教系の高校に行くと決めて志望校を探すうちに、立教高校を見つけました。校舎のたたずまいやチャペルを見て気持ちが固まったんです。自分の意志で志望校を決めて入学できたのは、すごくうれしいことだったんですよ。

西原 新座キャンパスのチャペル——立教学院聖パウロ礼拝堂は、建築家アントニン?レーモンドによる設計で、アーチ形状の外観デザインが特徴的な建築物ですよね。高橋幸宏※2さんも立教高校ご出身ですが、当時の思い出を話す機会はありましたか。

細野 幸宏と同時期に在籍していたわけではないので、高校の話はあまりしませんでしたが、「そうか、後輩なのか」とびっくりしたことはあります。

西原 自由な校風の中で青春時代を過ごされた幸宏さんも、いい意味での緩さや余白があるような気がします。細野さんとの共通点も多いのでは?

細野 そういえばそうですね。あまり欲が深くないところとかね。

2018年、ロンドンに集結したYMOのメンバー

※1 坂本龍一
1952年生まれ。東京芸術大学大学院在学中からスタジオミュージシャンとして活動。YMOが「散開」する1983年、映画『戦場のメリークリスマス』に出演し、音楽も担当。同作は英国アカデミー賞作曲賞を受賞、1987年の映画『ラストエンペラー』では日本人初の米国アカデミー賞作曲賞を受賞し、映画音楽においても世界的評価を得ている。2023年死去。


※2 高橋幸宏
1952年生まれ。1968年立教中学校卒業、1971年立教高等学校卒業。高校在学中からスタジオミュージシャンとして活躍し、1972年「サディスティック?ミカ?バンド」に加入。1978年、YMOを結成。ソロ活動と並行して、細野とのエレクトロニカ?ユニットSKETCH SHOWやバンド活動を行う。ファッションへの造詣が深く、自身のブランドを持っていた。2023年死去。

立教時代に出会った盟友たちと、音楽に明け暮れる日々

フォークグループを組んでいた高校時代

西原 立教高校ではフォークグループを結成されました。

細野 高校2年の時にクラスメートと「パンプキンズ?フォー」というバンドを組みました。みんな初心者でしたが、練習するとだんだん弾けるようになって。文化祭に出て賞をもらいました。

西原 当時は、音楽のどのようなところに魅力を感じておられたのですか。

細野 音楽はやっているうちにだんだん変わっていったり、形ができてきたり、さらにまた変わったりを繰り返して、少しずつ発展していくんですよ。クラスメートが少しずつ上達していくという変化も、楽しかったですね。

西原 立教大学に進学され、そこでは伝説的な出会いが重なりましたよね。

細野 池袋キャンパスのベンチで知り合った音楽好きの友人を介して、大瀧詠一※3と知り合いました。彼は僕の自宅に来るなり、飾ってあったシングル盤を見て「お!『ゲット?トゥゲザー』!」と言って、僕にあいさつする前にシングル盤にあいさつしたんですよ。アメリカの「ヤングブラッズ」というバンドの曲でした。
一方で、大学の音楽サークル「PEEP」では「ドクターズ」というバンドに誘われ、初めてベースを弾くことになりました。他大学の学生や高校生と一緒にライブを行い、そこで後に一緒にバンドを組む「はっぴいえんど※4」の鈴木茂※5や「キャラメル?ママ」の林立夫※6などと知り合ったんです。


※3 大瀧詠一
1948年生まれ。はっぴいえんどのボーカル&ギターとして活躍し、解散後は自身のレーベル「ナイアガラ」を設立。ソロ活動の他、松田聖子や森進一などに楽曲を提供するなど活動は多岐にわたり、日本のポピュラー音楽界に大きな影響を与えた。2013年死去。

※4 はっぴいえんど
細野、松本隆、大瀧詠一、鈴木茂によるロックバンド。1970年結成。当時日本の音楽シーンの中心だったグループサウンズやフォークとは異なる新しいサウンドを生み出すことを目指し、ロックとの相性が悪いとされた日本語詞の融合を追求した。

※5 鈴木茂
1951年生まれ。はっぴいえんどやティン?パン?アレーでギターを担当。アレンジャーやスタジオミュージシャン、プロデューサーとしての顔も持ち、現在はソロライブを中心に活動している。

※6 林立夫
1951年生まれ。キャラメル?ママやティン?パン?アレーでドラムを担当。2000年には細野、鈴木茂と「TIN PAN」を結成。現在は大貫妙子や矢野顕子などの作品?ツアーに参加している。

はっぴいえんどのセカンドアルバム『風街ろまん』(1971年)は、日本語ロックの金字塔とも称される作品(提供:URC Records/Sony Music Labels Inc.)

大学時代の1枚。自宅近くにて

西原 松本隆※7さんや小坂忠※8さんも同時期に出会われたのですか?

細野 松本は「バーンズ」というインストゥルメンタルバンドを組んでいました。ところが時代の流れがインストからボーカル曲に移り、バーンズも変化を求めていた。面識はありませんでしたが、松本から電話で「会いたい」と言われ、原宿の喫茶店で初めて対面しました。「オーディションをする」と聞き、「年下なのに生意気な」と思った記憶があります。小坂は当時「ザ?フローラル」というバンドを組んでおり、バーンズと同様に編成替えを考えていたようで、「入ってくれないか?」と給料袋をチラチラ見せながら言うんですよ。「僕の就職だ」と思ってすぐに入っちゃったんです。これが「エイプリル?フール※9」誕生のきっかけです。

西原 そうでしたか。エイプリル?フールやはっぴいえんどの起点は立教大学にもあるということですね。さまざまな出会いが生まれ、新しいものがクリエイトされていく、キャンパスという場の力を改めて感じます。


※7 松本隆
1949年生まれ。細野と同時期にエイプリル?フールに加入。はっぴいえんどではドラマーとして活動する一方、多くの楽曲の作詞も担当。解散後は作詞家として『木綿のハンカチーフ』『赤いスイートピー』など数々のヒット曲を手がけ、歌謡界をけん引し続けている。

※8 小坂忠
1948年生まれ。エイプリル?フールのボーカルとして活躍。解散後はロックやR&Bを中心にシンガー?ソングライターとして活動を続けた。1978年には日本初のゴスペルレーベル「ミクタムレコード」を設立し、日本のゴスペルミュージックの礎を築く。牧師としても活動。2022年死去。

※9 エイプリル?フール
細野、松本隆、小坂忠、柳田ヒロ、菊池英二によるロックバンド。1969年4月1日に結成し、同年9月に『APRYL FOOL』でデビュー。柳田ヒロの兄、柳田優は当時PEEPの中心メンバーで、細野とはドクターズを組んでいた。

エイプリル?フールは演奏力を高く評価されたものの、音楽性の違いからデビューアルバム発売時にはバンドの解散が決まっていた。左から菊池、柳田、小坂、細野、松本 撮影:野上眞宏

エイプリル?フールのデビューアルバム『APRYL FOOL』(1969年)(提供:日本コロムビア)

変化とわずかな革新性を求めることが「創作」の面白さ

西原 細野さんは一つの場所にとどまることなく、さまざまなジャンルの音楽と向き合ってこられました。新しいことに挑戦するタイミングは、どのような時に訪れるのでしょうか。

細野 音楽に限らず、一つのアイデアに固執しても意味はないし、同じことを続けていると単に「型」が残ってしまうと思うんです。「イエロー?マジック?オーケストラ(YMO)※10」がヒットし、新しくアルバムを出そうとした時、レコード会社から「『ライディーン』のような曲をもう一度作ってほしい」という要望が挙がってきました。創作の喜びを奪う注文に僕たちは強く反発して、誰も分からないような音楽を作ったんです。それが1981年にリリースしたアルバム『BGM』です。


※10 イエロー?マジック?オーケストラ(YMO)
細野、坂本龍一、高橋幸宏によるテクノポップグループ。1978年結成。コンピューターやシンセサイザーといった当時の最新テクノロジーを使ったサウンドは国内外の音楽シーンを変え、ファッションやヘアスタイルまで含めた独自のスタイルは社会現象を巻き起こした。1983年に「散開」。

YMOの2作目のアルバム『ソリッド?ステイト?サヴァイヴァー』(1979年)。『ライディーン』が収録されており、テクノポップ?ブームを巻き起こした(提供:ALFA MUSIC,INC./ Sony Music Labels Inc.)

YMOの5作目のアルバム『BGM』(1981年)。実験的な作品で、レコードの帯に「刺激が強すぎるので音量を上げて聴かないように」といった旨の注意書きがあった(提供:ALFA MUSIC,INC./Sony Music Labels Inc.)

西原 私たちファンは、過去のヒット作の影を追い求めてしまいます。

細野 音楽というのは少しずつ変わっていくもので、その微妙な変化が重要なんですよね。新しい曲を聴いて何も発見がなかったら意味がないでしょう。耳なじみのある音楽だけど、どこか革新性がある、というのが昔のヒット曲の王道だったんですよ。僕たちはそういった曲を聴いて、ひらめきや新しさのある音楽を作りたいと思うようになったんです。

西原 YouTubeなどインターネットを通して、膨大な量の音楽を聴けるようになりました。細野さんの昔の作品も若い世代に受け入れられたり、海外の人にまで届いたりしていますよね。決して色あせず、「懐メロ」にならず、新しいクリエーションとして多くの人に聴かれ続けています。革新性を含んだ音楽というのは、世代や国境を越えて愛されるものなのですね。

初のソロアルバム『HOSONO HOUSE』(1973年)は、当時住んでいた狭山アメリカ村(埼玉県狭山市)の自宅に録音機材を持ち込み制作された(?キングレコード)

『HOSONO HOUSE』(1973年)をリメイクした『HOCHONO HOUSE』(2019年)。演奏やミックス、マスタリングまで細野が手がけ、自身が紡いできた音楽の再構築を目指した作品(提供:ビクターエンタテインメント)

社会と音楽と自分と。それぞれの関係性に思いを巡らせて

西原 細野さんが生きる上で大切にされている価値観や考え方について伺いたいと思います。

細野 ここ数年、疫病や戦争などネガティブな出来事が続き、世の中に対する違和感があります。西洋社会ではキリスト教とアンチキリスト教の対立構造が表面化するなど、世界が切羽詰まっている。そのような状況を見ていて、僕はまたキリスト教を意識するようになりました。
キリスト教といえば、立教のシンボルマークに刻まれた「PRO DEO ET PATRIA」という言葉がすごく印象に残っています。大学の時にチャプレンから説明されて、意味は……。
西原 ラテン語を直訳すると「PRO DEO」は「神のために」となりますが、「普遍なる真理のために」という意味を有しています。「ET」は「アンド」の意、そして「PRO PATRIA」は「故郷?国のために」となりますが、立教では「私たちの世界、社会、隣人のために」と捉えています。2024年の立教学院創立150周年を機に、「普遍の真理を探求し、社会や隣人のために働くことができる人物を生み育てる」というメッセージを、学内で改めて共有しています。細野さんは、キリスト教に思いを巡らせながら、今後どのような音楽を紡ぎたいとお考えですか。

細野 新しいアルバムを作りたいのですが、すごく難しくて、昔のようには進められない。社会と音楽、自分と社会の関係性などを表現しようと考えると、手が動かなくて。時代の流れに負けないように、自分の内面にある喜びやプラスの感情をしっかり確立させたいと思っています。その過程やたどりついた答えを、音楽を通じて伝えたいですね。

映画音楽家としての顔も持ち、第71回カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した映画『万引き家族』の音楽を担当。サウンドトラックをリリースした(2018年)(提供:ビクターエンタテインメント)

プロフィール

細野 晴臣 HOSONO Haruomi
音楽家


1947年東京都生まれ。
1966年立教高等学校卒業、1971年立教大学社会学部卒業。大学在学中に「エイプリル?フール」にベーシストとして加わりデビュー。
1970年「はっぴいえんど」結成。
1973年ソロ活動を開始、同時に「ティン?パン?アレー」としても活動。
1978年「イエロー?マジック?オーケストラ(YMO)」を結成。

作曲?プロデュース?映画音楽など多岐にわたり活動している。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合があります。

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